滝みつるのウェブサイトにようこそ

リアルが痛ましい (「中之院」軍人像・知多半島)

This Painful realism, their appearance are in rigor mortis forever.

92人は出兵2週間で、全員戦死

ドッキリする軍人像92体。彼らは「支那事変」勃発直後の1937年8月、
上海のウースー上陸作戦のために緊急出動を命じられる。
名古屋城内の兵営より名古屋港まで夜間13キロの歩行行軍の後、
野間沖に待機する巡洋艦、駆逐艦に乗せられ、わずか26時間で揚子江
河口付近に到着後、敵前上陸することになる。そして2週間足らずであっけ
なく全滅したという。

生きたままの姿して、語れない

この軍人像は、遺族が兵士の写真をもとに作らせた。最初は名古屋市千種区に
あったが、区画整理のため縁あって知多半島の南知多町にある「中之院」に
移されている。
これは物語ではない。彼らは何のために生まれてきたのかさえ問うてくる。
戦争は人間性のすべてを消し去る。それは人間であっては出来ないことをやらせる
ためだ。相手を殺すために。殺す側が人間であっては相手を殺せない。
軍人像92体は、いまだ人間性を抱えたままに命令に従ったのだろう。あどけない
少年軍人像が見える。
彼ら92人は、今にも語りかけてくるようだ。しかし何も語れない。
生前の姿そのままであることが、かえって痛ましさを誘う。

土くれとともに散乱する (比治山陸軍墓地・広島)

Dead souls abandoned in a lot, littered with dirt.

数千の墓石も遺骨も、10数年間放置

この墓地に入るなり異様な光景に遭遇する。
個々の墓石が隙間無くギチギチに詰め込まれて並んでいる。
墓石の正面の文字は2列目からは隠れて見えない。
横側や背後に書かれているはずの文字も見えない。何かの異常な事態を
予感させた。
この地に墓地が置かれたのは、西南の役の前(1872)とのこと。以来、
先の大戦末期までの70余年にわたって、沖縄県をのぞく全国46都道府県の
死者たちが地域別に埋葬されている。ところが大戦末期にこの高台(標高70m)
高射砲陣地を作るため、4千数百の墓石は一挙に掘り起こされ、大きな壕を
掘って放り込まれたと。時とともに遺骨もまた散乱した惨状が、
敗戦後10数年にわたり放置されていたという。

放射線研究で、再度散乱

さらに戦後駐留軍がこの同じ高地に、原爆の人体に対する影響を測定研究する
ために「放射線影響研究所」を作るに当たり、遺族の反対をよそに、壊された
墓石や掘り出された遺骨を南斜面に捨てたという。現在の墓地になったのは、
岩田日出子女史らの努力によって1960年になってからである。
残存した4,500余の墓石を限られた土地に並べ替える至難の作業は、
墓石をギッシり詰めて並べる他すべがなかったものと想像される。
これらの経緯は何を物語る?今日また「国のために尊い命を捧げた御霊に
哀悼の誠を捧げる」などと言っているが、ためにするウソであることを物語
っていよう。どの国も、戦没者に対しては分け隔てなく敬うというのもまた
マユツバである。
国家が戦争に向かうとき、人間とそのいのちは、土くれとともに散乱させられる
のが常であろう。

淡々と跡をとどめて (名古屋陸軍墓地)

Victims of war without self-esteem.

移転され、3分の1に縮小され

バスで「平和公園」に下車すると、見たこともないような光景に出くわす。
見渡す限りの視界が墓地で覆われている。山の向こうまで墓場かも知れない?
戦後まもなく戦災復興整備事業として市内279寺の19万基近い墓碑を147㌶
東部丘陵地に移転し墓園とする計画が進められ「平和公園」とした。
名古屋陸軍墓地も移転されて後、置き換えられてこの一角にあるが、移転前の
三分の一くらいに縮小されたと記述にある。
当陸軍墓地は大阪の旧真田山陸軍墓地との共通点が多いと思えた。
個人墓碑は形も並べ方も、石材の粗末さも同じで劣化が激しく文字も読みづらい。
個人墓碑は日清戦争以降、戦死者が多くなり合葬墓碑に、やがて忠霊塔に変っていく。また階級によって墓碑の大きさが異なり階級差が歴然としていることなども。
ここには個人墓碑・合葬碑など730余基があるとされるが、
戦争の跡を留めるばかりのたたずまいは、さみしく空しい思いを残した。