
死者たちの「巨大置き場」か(旧真田山陸軍墓地・大阪)
Like a Garbage-Yard for Our Wasted War Dead
わが国最初で、最大の戦没者墓地
鉄格子の正面を入ると、一瞬にして日常が壊される。見たこともない光景が
判断を迫ってくる。それは墓石の列だと一目で知れるのだが、まったく同じ高さ
形の墓石の異様な整列が眼前にあった。その光景は未知の大規模な事態の存在を
印象づけた。これがわが国最初にして、最大の戦没者墓地であることを知る。
数万人の死者は眠れない
「旧真田山陸軍墓地」は最初に訪れた墓地であった。墓列の中を進むほどに
無数の墓石が行けども雑草の中に並んでおり、それは死者たちの巨大置き場さな
がらに思えた。個人墓石は5,300を数え、日清、日露戦争と続くにつれて死者
は急増し、個人墓石の建立自体がかなわなくなり「合葬墓」に埋葬されていく。
続く日中戦争、太平洋戦争へと戦況が激化する中で、戦意高揚のために死者を
「忠霊」として顕彰する「忠霊塔」建立の運動が始められる。当陸軍墓地では、
より低廉な木造建てで収容規模を優先した「仮忠霊塔(納骨堂)」が建立される
ことになる。ここには43,000余人の死者たちが、いまも腐朽した建物の中に
置かれている。
ある夏の日に出くわした光景が忘れられない。墓地の中で幼い男女2人の子ども
が長い柄の昆虫網を持って夢中になって蝉を捕らえていた。一瞬、戦争も墓石も
苦痛も消え去り、未来が射し込んだかに思えた。蝉の激しい鳴き声が耳に
残っている。
(「旧真田山陸軍墓地」については、その歴史と意義を研究するNPO法人「旧真田山陸軍墓地と
その保存を考える会」があり、市民とともに見学会や研究会が随時行われている。)![]()
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肌寄せる化身たち (信太山陸軍墓地・大阪)
Ruins of youth, crowded shoulder-to-shoulder.
1万人余の勤労奉仕で建立
一方「信太山陸軍墓地」は、戦意高揚期に、国民学校、青年学校の学童、生徒、
諸団体など一万人余の人たちの勤労奉仕なども行われ、丘の上に「忠霊塔」として
建立された。忠霊塔の下が納骨堂になっており、1,560余人が合葬されている。
大半は日中、太平洋戦争の死者であるとされる。狭い納骨堂の中は、
真田山のそれと同じ姿の化身たちが、ぎっしりと立ち並んでいた。
狭い空間で肌を寄せ合っているかに見えた。
「反戦平和の戦士」の墓碑に遭遇
墓地からの帰途に思いもよらない墓碑に遭遇した。「反戦平和 不屈の兵士
阪口喜一郎顕彰碑」と記銘されている。「建碑の主意」に、地元黒鳥町生まれで、
戦争に疑念を抱いて海軍内で反戦運動を行う。憲兵隊に捕らえられて
広島刑務所で獄死したと記されていた。
今日につながる希少のメッセージとして、写真を添えて記録にとどめておきたい。


























